2018年4月25日水曜日

野球愛に満ちた鉄人

 球界の「鉄人」がこの世を去った。広島一筋で、20年以上にわたり、中心選手としてチームを支え続けた衣笠祥雄さんが23日、東京都内で、大腸がんのため71歳で亡くなった。

 京都市出身で、地元の平安高(現・龍谷大平安高)で1964年に捕手として甲子園大会に春夏連続出場。65年に広島に入団すると内野手に転向し、常にフルスイングの豪快な打撃で1軍に定着。山本浩二さんとともに中軸を担った75年にセ・リーグ初優勝を果たすと、79、80年のリーグ連覇に貢献し「赤ヘル旋風」を巻き起こした。

 プロ6年目の70年10月から連続出場を続け、死球による骨折などを乗り越えて、87年6月にはルー・ゲーリッグが持っていた当時の米大リーグ記録を上回る2131試合連続出場を達成。同年引退するまで2215試合に伸ばし、96年6月に大リーグのカル・リプケンに抜かれたが、今も日本プロ野球記録として残る。リプケンに連続出場記録を抜かれた際、「物事をコツコツやることが尊重されない最近の世相の中で彼の記録は断然、輝いている」と語った衣笠さん。その言葉通りの野球人生だった。【田中将隆】

 ■評伝

コージに負けじと

 1987年は担当していた阪神が最下位に沈んだままで、いい思い出がない年だった。その中で広島の衣笠祥雄の連続試合出場世界記録達成を取材できたことは、プロ野球担当記者冥利に尽きた気がしてならない。

 広島は前年にリーグ優勝したものの、衣笠は打率2割5厘と不振で、周囲からは「記録作りのために出場」などと心ない声も上がっていた。こうした中で本人に連続試合出場への思いを聞きたいと考え、記録達成まで残り10試合の時点から運動面に密着取材ドキュメントを連載した。広島担当でもない記者の質問に、彼は白い歯を見せて丁寧に答えてくれた。飾らない人柄がにじみ出た笑顔だった。

 新記録達成の6月13日の中日戦。試合が成立した五回終了後、花束を受けた衣笠への万雷の拍手は、球界が誇る「鉄人」への大賛辞だった。衣笠は六回に通算495号本塁打を放ち、ファンに返礼する律義さも見せた。

 「コージがいたから」。プロ野球人生を語る時はいつも、チームメートで同学年の主砲・山本浩二の名前を出した。「ミスター赤ヘル」の異名でスターになった山本に負けたくない気持ちで、野球に取り組んできたのだ。

 ベンチでこんな光景を目にした。86年の日本シリーズで広島は西武に開幕戦引き分けの後、3連勝で日本一に王手をかけた。「このシリーズは楽じゃのう」と山本が漏らした言葉に、横にいた衣笠は同意しなかった。結果は4連敗。衣笠は「コージ、それは違う」と言いたかったのかもしれない。慎重な一面も持ち合わせている「鉄人」だった。(元毎日新聞大阪本社運動部・村上清司)

死球受け、顔色変えず

 現役時代の衣笠さんの体をケアした広島トレーナー部アドバイザーの福永富雄さん(75)は、今も衣笠さんの「鉄人」ぶりをよく覚えている。

 「左手首に右手親指、そして左肩甲骨……」。衣笠さんの骨折箇所が、次々と福永さんの口から飛び出してくる。どんな時でも衣笠さんは「野球が好きだ」と言い張り、試合に出続けた。福永さんは「ポジションを奪われないために、懸命に頑張っていた気がする」。

 反射神経が鋭く、体が柔軟でバネがあった衣笠さん。けがを抱えながらも、打って、守って、走った。そんな衣笠さんに、福永さんは驚きの連続だったという。痛みにも強かった。死球を受けても顔色一つ変えず、福永さんやチームに知らせずに一人で病院に行き、レントゲン写真を見ただけで帰ってきたこともあった。「治るのかという不安もあったのだろう」と福永さん。プレーに専念させるため、「昨日と比べてどうや?」とだけ声をかけた。衣笠さんから「悪くない」と返ってくれば、「じゃあ大丈夫。そのうち治るよ」。そんな会話が常だった。

 引退後も親交は続き、最後の会話は今月17日。衣笠さんから直接電話があった。「大変なんだ」。病状を説明する口調には、「鉄人」と呼ばれた面影はなかったという。【福田智沙】

豪快フルスイング

 連続試合出場記録が大きく注目される衣笠さんだが、23年間のプロ生活では歴代7位の通算504本塁打を放ち、長打率も4割7分6厘をマークするなど、強打者としても球史に残る活躍を見せた。

 特筆すべきは、豪快なフルスイング。体勢を崩し、ヘルメットがズレるほど、思いきりバットを振り切った。力強く引っ張った打球を運ぶ「指定席」は、左翼スタンド。1987年8月11日のヤクルト戦、史上5人目となる通算500号の節目の一発も、真ん中高めの直球を一直線に左翼席に飛ばす、衣笠さんの魅力が詰まったアーチだった。

 半面、三振数は歴代9位の1587個で、併殺打数も歴代2位の267。打率も3割を超えたことは1度しかなかった。それでも一振りで勝負を決めてくれる期待感は、見る者を興奮させ魅了し続けてきた。【角田直哉】

心優しいナイスガイ/話せるライバル

 衣笠さんの突然の死に、球界関係者からは悼む声が相次いだ。

 チームメートとして3年間、監督として2年間、ともに広島で過ごした阿南準郎さん(80)は「監督として引退まで付き合ったが、鉄人そのものだった」と振り返った。監督就任を要請され迷っていた時に、衣笠さんと山本浩二さんから「任せてください」と背中を押されたと言う。「そのおかげで監督になり1986年のリーグ優勝も経験できた。記録にも立ち会わせてもらい、一緒に野球をやれたことは一つの勲章みたいなもの」と感謝した。

 広島時代に一緒に戦ったソフトバンク・達川ヘッドコーチは、こよなく野球を愛する衣笠さんの姿が印象に残っている。「野球の話がすごく好きで、マウンドでもいろいろなアドバイスをくれた。人を悪く言うことはなく、試合中も穏やか。野球を一番愛していたのはキヌさんだった」と懐かしんだ。

 同じく元広島の池谷公二郎さん(65)は「体が頑丈そうに見えても、実はテーピングだらけだったりした。毎日出るのはそれだけ大変なこと。少しでも長く生きてほしかった」と肩を落とした。

 けがにも負けず試合に出続け、国民栄誉賞を贈られた衣笠さん。同じく国民栄誉賞を受賞した元巨人監督の長嶋茂雄さん(82)は「心優しい人で、巨人戦で死球を受けた時は、カープのベンチを自らなだめながら笑顔で一塁へ向かう姿が忘れられません。芯が強く、優しい心を持っているいい男、ナイスガイでした」とコメントを寄せた。またソフトバンクの王貞治球団会長は「ライバルになっても食事をしたりして、いろんな話ができた。一本足打法の考え方も隠すことなく自分のことは伝えられた。もっともっと話しておけば良かった」と悼んだ。【浅妻博之、生野貴紀、松倉佑輔】

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