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プロ野球広島で中軸打者として活躍し、プロ野球記録の2215試合連続出場で「鉄人」と呼ばれ、国民栄誉賞を受賞した衣笠祥雄氏が死去したことが24日、関係者の話で分かった。71歳。京都府出身。
京都・平安高(現龍谷大平安高)で1964年、捕手として甲子園大会に春夏連続出場。65年に広島に入団し、内野手に転向。75年は山本浩二氏とともに中軸を担ってセ・リーグ初優勝に貢献し「赤ヘル旋風」を巻き起こした。76年に盗塁王。84年に打点王で最優秀選手に選出され、日本一にも輝くなど広島の黄金期を支えた。プロ6年目の70年10月から連続試合出場を続け、87年6月にルー・ゲーリッグによる当時の米大リーグ記録2130試合を更新。同年に引退するまで、死球による骨折も乗り越えて2215試合連続出場。87年に王貞治氏に次いでプロ野球2人目の国民栄誉賞。96年に野球殿堂入りした。背番号「3」は広島の永久欠番。通算成績は2677試合で2543安打、504本塁打、1448打点、打率2割7分。引退後は解説者として球界に携わった。
「野球を志してよかった」
“赤ヘル軍団”の象徴として時代を彩った。1975年のオールスター第1戦で同僚の山本浩二氏とともに2本塁打を放った。長期低迷していた広島を引っ張り、この年、初のリーグ制覇。「赤ヘル旋風」を巻き起こした。79年には日本シリーズを初制覇。翌80年も日本一に輝き、黄金期を支えた。
転機はプロ3年目の67年。後に広島や西武などで監督を務めることになる根本陸夫氏が1軍コーチに就任したことだった。2軍暮らしが続き、私生活も乱れていた時期に合宿所で毎晩のように説教され、長打やフルスイングという原点を見いだした。翌年から主力へと成長した。引退まで2215試合連続出場を続け「鉄人」と呼ばれたのは強い気持ちがあったからこそだ。
96年には当時史上2人目だった40代での野球殿堂入りを果たした。プロ入り当初は1000試合出場が夢だった。記者会見で「野球を志してよかった。まさかこういう日を迎えるとは」と誇らしそうだった。

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